新米リーダーと親の心得

ジェームズ

2012年04月01日 12:34



「父は忘れる」

 リヴィングストン・ラーネッド

 坊や、きいておくれ。おまえは小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。

 お父さんは、ひとりで、こっそりおまえの部屋にやってきた。

 今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。罪の意識にさいなまれておまえのそばへやってきたのだ。


 お父さんは考えた。これまでわたしはおまえにずいぶんつらく当たっていたのだ。

 おまえが学校へ行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。靴を磨かないからといって、叱りつけた。また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。


 今朝も食事中に小言をいった。食物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルに肘をつくとか、パンにバターをつけすぎるとかいって、叱りつけた。

 それから、おまえは遊びに出かけるし、お父さんは駅へ行くので、一緒に家を出たが、別れるとき、おまえは振り返って手を振りながら、「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。


 同じようなことがまた夕方に繰り返された。

 わたしは帰ってくると、おまえは地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。
 長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはおまえを家へ追いかえし、友達の前で恥をかかせた。

「靴下は高いのだ。おまえが自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」

-これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない!


 それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、おまえは、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。

 うるさそうにわたしが目をあげると、おまえは、入口のところで、ためらった。

 「何の用だ」とわたしがどなると、おまえは何もいわずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。

 両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしにキスした。

 おまえの小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。

 どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。

 やがて、おまえは、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。


 ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然なんともいえない不安におそわれ、手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。

 何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう!

  叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないおまえに、お父さんは何ということをしてきたのだろう!

 決しておまえを愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もゆかないおまえに、無理なことを期待しすぎていたのだ。おまえを大人と同列に考えていたのだ。


 おまえの中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。

 おまえの優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。

 おまえがこのお父さんにとびつき、お休みのキスをした時、そのことが、お父さんにははっきりわかった。ほかのことは問題ではない。

 お父さんは、おまえに詫びたくて、こうしてひざまずいているのだ。


 お父さんとしては、これが、せめてものつぐないだ。

 昼間にこういうことを話しても、おまえにはわかるまい。だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。
 おまえと仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。小言をいいたくなったら舌をかもう。そして、おまえが子供だということを常に忘れないようにしよう。


 お父さんはおまえを一人前の人間とみなしていたようだ。こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりおまえはまだ赤ちゃんだ。

 昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。お父さんの注文が多すぎたのだ。


(デール・カーネギー著「人を動かす」より)


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ミスに対して批判も批難もしない。
相手の立場に立って、どういう経緯でそういう事態に至ったのかを検証し、
次からの対処方法を検討するほうが余程得策である。とカーネギーさんは言っている。


一時の怒りに身を任せると楽だけど、叱るだけでは人はついてこない。

「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」
ですな。


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